室町幕府と明王朝
こうして天皇親政が復活するかに見えたが、二条河原の落書からも分かるように建武の新政は不安定であった。持明院統が建武式目を制定して1338年に足利尊氏を征夷大将軍に任命すると、大覚寺統は吉野へ南下して北朝と対峙する南北朝時代が到来する。しかし、新田義貞の戦死と後醍醐天皇の病死で南朝は衰退していく。日本の海賊である倭寇が朝鮮半島南岸に次いで中国大陸沿岸の山東から浙江にかけてを襲撃するようになるはこの頃からである。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。この海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する目的があったとも考えられている。
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中国大陸では白蓮教徒による紅巾の乱を経て1368年に洪武帝が明を建国し、海禁政策によって朝貢貿易のみを許可することとした。日本に対して倭寇討伐の要請をするため九州で勢威を振るっていた南朝の征西将軍懐良親王に使者を派遣する。しかしその後九州探題の今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、1368年、第3代将軍の足利義満の時に南北両朝廷は和睦を結び、1392年には南北朝が合一するため洪武帝は日本との冊封関係を結べなかった。