2009年06月16日

コンビーフ(corned beef)とは牛肉を塩漬けにした

コンビーフ(corned beef)とは牛肉を塩漬けにした食品である。日本やアルゼンチンでは缶詰にした物が多い。

本来は、船などで保存食料として使うための粗塩(corn)で塩漬けにした牛肉のことを言う。日本では一般に缶詰であり、塩漬けした牛肉を高温高圧で加熱してほぐしフレーク状にした後、牛脂で固めたものである。そのまま食べたり、サンドイッチや炒め物などの材料にしたりする。

コンビーフの缶は、内容物がこぼれないように側面の一部を帯状に巻き取って開缶できる。缶切りを使わずに済むため、レトルト食品が普及する以前は登山やキャンプなどのアウトドアで重宝された。ただし開缶の途中で帯が千切れてしまいやすく、その際の始末に困るという欠点もあった。このため近年ではプルトップ缶も一部のメーカーでは採用され始めている。
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形を保ったまま取り出せるような配慮や密閉時に空気が入らない充填ができる等の理由により、缶の形が台形になっているものが多い。一時期は標準的な丸型の缶詰も存在していたが、"コンビーフの缶詰は台形"というイメージが定着しているためか売上は芳しくなく、自衛隊の副食用缶詰を除いて[1]現在は日本では製造されていない。

アルゼンチンやブラジルなどでも缶詰にしたものが主流で、牛肉をほぐさずボイルする方法で調理される。イギリスでは第一次世界大戦の頃から陸軍や海軍でこの缶詰が食料として用いられていた。ウルグアイでは”フライ ベントス”の名前で1873年より英国などへ輸出され始めた。

なお缶詰にしないものはフレッシュ(生)コンビーフと呼ばれ、アメリカやヨーロッパなどでは一般的である。キャベツと共に調理された、コンビーフ・アンド・キャベジは、アメリカにおけるアイルランド料理の定番となっている。

2009年05月30日

爵位制度の検討

華族制度の発足以前から爵位による華族の格付けは検討されていた。明治2年(1869年)5月には華族を『公』・『卿』・『太夫』・『士』の四つに分け、公と卿は上下の2段階、太夫と士は上中下の3段階という計9等級に分ける案が三職会議から提出された。明治4年(1871年)9月には正院から左院に『上公』・『公』・『亜公』・『上卿』・『卿』の5等級に分ける案が下問された。これを受けた左院は10月に『公』・『卿』・『士』の3等級に分ける案を提出した。明治9年(1876年)には法制局が『公』・『伯』・『士』の3等級案を提出し、西南戦争以前は3等級案が主流となっていた。

明治11年(1878年)2月4日、法制局大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅から伊藤博文に対し、『公爵』・『侯爵』・『伯爵』・『子爵』・『男爵』の5等級案が提出された。これは五経の一つである礼記の王制篇に『王者之制禄爵 公候伯子男 凡五等』とあるのにならったものである。
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明治17年(1884年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族は『公爵』・『侯爵』・『伯爵』・『子爵』・『男爵』の五階の爵位に叙された[6]。この基準は、明治17年(1884年)5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。同時に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、爵位を受けている。叙爵は7月中に三度行われ、509人の有爵者が生まれた。

2009年04月27日

網漁業

漁具として網(漁網)を用いる漁法である。主な網漁業には以下のようなものがある。

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底引き網
遠洋底引き網 - 北方トロール、転換トロール、北転船、南方トロール、えびトロールの総称
以西底引き網
沖合底引き網
小型底引き網
船引き網
引き回し網
引き寄せ網
地引き網
巻き網
刺し網
敷網 - 棒受け網、四つ手網など
定置網

釣漁業
一般には釣り具を用いる漁法であるが、釣り竿を用いない釣り漁や、延縄漁もこれに含まれる。主な釣漁業には以下のようなものがある。詳細は釣り漁を参照。

延縄(はえなわ) - まぐろ延縄、さけ・ます延縄など
手釣り漁
竿釣り漁 - 遠洋かつお一本釣など
機械釣り漁 - 遠洋いか釣など
曳縄釣り漁
立縄釣り漁

刺突漁
徒行や船上から突具・鉤具を用いて、移動する魚類などを直接刺突する漁法である。岸辺や船上から目視して刺突したり、潜水して移動中の魚を「追突」(おいづき)する例などがある。以下のような刺突具がある。

モリ(銛)
モリはクジラや海洋の大型魚の刺突に用いられた遊撃刺突具。
ヤス(簎・矠)
長い柄の先端に、数本の尖った鉄製の突き刺し具が付けられている。
カギ(鉤)
長い柄の先端に、先端が曲がった鉤状の金属が付けられている。
むつかけ
有明海の干潟に生息するムツゴロウを捕獲する漁法。

陥穽漁法
魚類の習性(遡上や降下性)を利用する、餌で誘導する、水流を利用するなど、さまざまな工夫によって魚を誘い込み、何らかのしかけ・罠によって魚を逃げられないようにする漁法である。以下のようなしかけ、漁具がある。

ウケ(筌)
東北地方では一般に「ドウ」と呼ばれている籠状の漁具。
エリ(漢字は魚へんの右に入)

蛸壺

潜水漁法(潜水器漁業)
素潜り、または潜水器具を着用して、素手または刺突具など道具を用いて水生動物を捕獲する。

2009年04月10日

フルート(Flute)

フルート(Flute)は木管楽器の一種。リードを使わないエアリード(無簧)楽器であり、唇から出る空気の束を楽器の吹き込み口の縁にあてることで発する気流の渦(エッジトーン)を発音源とする。

現在、一般にフルートというと、ここで述べる、数々のキー装置を備えた、オーケストラに用いられる横笛を指すが、古くは広く笛一般を指した。特にバッハなどバロック音楽の時代にあっては、単にフルートというと、現在一般にリコーダーと呼ばれる縦笛を指し、現在のフルートの直接の前身楽器である横笛を指すには、「横の」(トラヴェルソ)という形容詞を付けて「フラウト・トラヴェルソ」と呼ばれていた(単に「トラヴェルソ」と略されることもあった)。

現代では、少数のグラナディラ(クラリネットの管体にも用いられる。グラナディラはもはや黒檀とはみなされない)などの木製楽器を除いて、通常は洋銀、銀、金、プラチナなどの金属で作られるが、歴史的、構造的に、金管楽器ではなく、無簧の木管楽器に分類される。

またはコンサート・フルートとも呼ばれ、通常C管である。19世紀にドイツ人フルート奏者・楽器製作者テオバルト・ベームによって大幅に改良され、正確な半音階と大きな音量、貴金属の管体を持つようになった。この改良によって生まれたフルートは、ワーグナーをして「その大砲をどけろ!」と言わしめた代物である。

フルートは発音にリードを用いないため、ほかの管楽器よりもタンギングの柔軟性は高い。また、運指が比較的容易なことから運動性能は管楽器の中で最も高く、かなり急速な楽句を奏することも可能である。管楽器の中で音量は小さい方であるが、音域が高いため耳につきやすい。フルートの音色は鳥の鳴き声を想起させ、楽曲内で鳥の模倣として用いられることも多い。有名でわかりやすい例として、サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』の「大きな鳥籠」、プロコフィエフの交響的物語『ピーターと狼』などが挙げられる。

フルートは独奏や室内楽で用いられるほか、オーケストラおよび吹奏楽においても定位置を確保しているが、ジャズでの使用頻度はサクソフォーンやトランペットなど、ほかの管楽器と比較して低い。また、ジャズ専門のフルート奏者は少なく、サクソフォーンなどのジャズプレイヤーが持ち替えるか、フルート奏者がクラシックとジャズの両方で活動するというケースが多い。

アマチュアを含めたフルート人口はほかの管楽器と比較して多く、フルートの同属楽器で構成したフルートアンサンブルやフルートオーケストラがある。

楽器はキーを右にして構え、下顎と左手の人さし指の付け根、右手の親指で支える。楽器は両肩を結ぶ線と平行に持つのではない。右手は左手に比べて下方、前方にある。奏者は正面ではなくやや左を向き、右に首をかしげている。

昔はもっぱら木で作られていたが、後に出現した金属製が現在では主流となっている。なお、発音に唇の振動をもちいないので、金属でできたフルートも木管楽器である。

古代 - ルネサンス時代
フルートを広義に考えて「リードを用いず、管に息を吹き付けて発音する楽器」とするならば、その最も古いものとしては、4万年前のものと推定される熊の足の骨で作られた「笛」がスロヴェニアの洞窟で発見されている。また、それほど古いものでなくとも数千年前の骨で作られた笛は各地から出土しており、博物館などに収められている。これらの笛は当時のほかの楽器同様、主に宗教的な儀式に用いられていたと考えられている。

世界各地で用いられていた原始的な笛は、縦笛かオカリナのような形状の石笛がほとんどであった。ギリシャ神話の牧神、パンが吹いたとされるのも縦笛である。一方、現在我々が使用しているフルートにつながる横に吹く方式の笛が、いつ、どこで最初に用いられたのかははっきりしていないが、一説には、紀元前後、あるいはそれ以前のインドに発祥したといわれており、これが中国に伝わり、さらに日本や、シルクロードを通ってヨーロッパに伝えられていったと考えられている。横笛の歴史は、西洋よりも日本を含めた東洋の方がずっと長いのは事実である。

ルネサンス時代のヨーロッパでは、横笛はあまり一般的な楽器ではなく、軍楽隊や旅芸人などが演奏するだけのものであった。構造は円筒形でトーンホールが6つ、キーはなく、楽器は分割できないようになっていた。大きさもさまざまで、ソプラノ・アルト・テナー・バスといった種類があり、これらで合奏(コンソートと呼ばれる)も行なわれていた。現在では、このようなフルートを指してルネサンス・フルートと呼んでいる。
バロック時代 [編集]
18世紀半ばごろまでのバロック時代、単に「フルート」といえば縦笛(リコーダー)を指し、現在のフルートの原型となった横笛は「フラウト・トラヴェルソ(flauto traverso, 「横に吹く」の意)」と呼ばれて区別された。この時代のフラウト・トラヴェルソの多くは木製で、歌口と反対側の先端が細くなった円錐形、トーンホールは6つ、キーが右手小指に1つ、最低音はD4、最高音はE6(ト音記号で上加線3本の位置)までというものが一般的であった。楽器の構造としてはD管であるが、楽譜は実音で記譜されたため移調楽器ではない。また、現在のフルート(モダンフルート)のようにトーンホールをふさぐためのキーやタンポを用いず、穴を直接指でふさいでいたため必然的にトーンホールの大きさが限られ、小さな音量しか出すことができなかったが、多様な音色を持ち、繊細で豊かな表現が可能であった。また、この頃フラウト・トラヴェルソを演奏することは王侯貴族のたしなみと考えられており、特にフリードリヒ2世はフラウト・トラヴェルソの名手だったと伝えられている。

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2009年03月26日

激しい下着市場の競争から広告の必要

1910年代 [編集]
激しい下着市場の競争から広告の必要が認識され、様々な形の広告が登場するようになる。アメリカで最初に下着の広告が掲載されたのは1911年にサタデー・イブニング・ポストという週刊誌の紙上であり、ケノーシャ・クローズド・クロッチ(Kenosha Klosed Krotch)を描いた画家、J.C.レインデッカーの油絵が掲載された。初期の広告の売り文句は耐久性と着易さを強調しており、ファッション性はまったく問題にされていなかった。

1910年代の後半に、カルマーズ紡績会社(Chalmers Knitting Company)がユニオンスーツを上下の2枚に分けることを考案し、事実上、アンダーシャツとズロースを発明する。女性用に作られた薄手かつレースを多用しているものは、キャミソールとズロースと呼ばれる。

1913年にメリー・フェルプス・ヤコブ(Mary Phelps Jacob)の手により、女性用下着は革命を迎える事になる。薄手のドレスの下のコルセットから突き出ている鯨の骨を隠すために、2枚のハンカチをリボンで結ぶことで、現在ではブラジャーと知られているものを開発したのである。メリー・ヤコブは、手作業で家族や友人のために作っていたが、あっという間に下着の噂は広まり、1914年には特許を申請し、アメリカ中にブラジャーの販売網を広げることになる。ブラジャーのような下着は以前から作られているが、ヤコブのデザインしたブラジャーが初めての成功を収めたものである。

1910年代の終わりごろにアメリア・ジェンクス・ブルマー(Amelia Jenks Bloomer)の手により、男性用のショートパンツに似た下着、ブルマーが発明される。この頃のブルマーはズボンのように足首まで覆うデザインである。ギブソンガールズと呼ばれる男性と同じように自転車やテニスのようなスポーツを楽しむ活動的な女性たちの間でブルマーは流行する。コルセットは時代遅れとなり、鉄が戦略資源として統制された第一次世界大戦がコルセットに止めをさす事になる。

第一次世界大戦に従軍した兵士たちは、前でボタンで留めた短パンを下着として支給された。ボタンは紐に引っ掛けて固定するようになっており、両脇の結び目でずり落ちないように調整する仕組みになっている。このデザインは流行し、ユニオンスーツは凋落を迎える事になる。大戦中に合成法が開発されたレーヨンも下着に使われるようになる。

1920年代 [編集]
1920年代に下着を生産する会社は耐久性より、快適さを追求するようになる。ユニオンスーツの広告は、ボタンを減らし、着易さを追求した新たなデザイン上の特許を売り文句として掲載するようになる。これらの特許の多くはユニオンスーツとズロースの社会の窓の新たな形状に関するものであった。また、耐久性に優れたナインソック(nainsook)という幼児用の柔らかい生地も下着に広く使われる事になる。一度下洗いがしてある収縮済みの下着も広く売り出される。

ブルマーは短くなり、新しく発明されたストッキングで足を覆うようになる。ゆったりとしたデザインが主流になり、1920年代の終わりには足回りが広いことを除けばパンティに近いデザインとなる。

社交ダンスが流行し、ストッキングがずり落ちるのを防ぐためにガーターベルトが発明される。また、下着がただ隠すべきものから、女性の魅力を引き立たせる意味が理解され、ランジェリー(lingerie)という新たな下着の分野を確立させる。

1928年にロシアからアメリカに移民したイダ・ローゼンタールの手により、現在でも使われているカップサイズというアイデアがメイデンフォーム社に提案され、広まることになる。

1930年代 [編集]
1930年代に男性向け下着の発明と改良が進んだ。1935年1月19日、シカゴのクーパー株式会社の手により、ジョッキーと名づけられた世界初のブリーフが売り出される。

ボタンや紐の代わりにゴムが腰周りに使われるようになり、プロボクサー選手が身につける短いズボンに似たボクサーショーツが広く売り出される。スコーヴィル社(Scovil Manufacturing)がスナップファスナーを開発し、下着に広く使用されるようになる。

コルセットはガードルとして生まれ変わり、ブラジャーやガーターベルトと共に身につけられるようになる。

1940年代 [編集]
第二次世界大戦中にゴムや金属が戦略物資となると、一時的に紐とボタンが下着に用いられるようになる。物資不足の中、下着も不足し、古くなった服を再加工したものも使われた。

戦後は、クーパーズ社を前身とするジョッキー社とヘインズ社が大手であったが、クルット・ピーボディー・カンパニー(Cluett, Peabody and Company)が、サンフォリゼーション(Sanforization)という生地を出荷前に洗い縮める技術の特許を取り、広く利用されるようになる。

コルセットはハチのように細い括れからワスピー(waspie)として再び広まる。胸の谷間を強調するストラップレスブラも使われるようになる。

1950年代から1960年代 [編集]
それまで下着といえば白のみで、それ以外は一部の特殊な職業で使われているだけであったが、プリント柄や赤や黒の下着も売り出されるようになる。ファッション性も理解されるようになり、様々な試みがなされるようになる。レーヨンやダクロン、ナイロンのような化学繊維が広く試され、そのうちのいくつか、例えばナイロン製のストッキングは広まることになる。また、男性用の下着も大柄の模様やメッセージ、それにキャラクターイメージがプリントされたものが広く売り出されるようになる。

1950年代の流行として、腰周りの細さより胸を強調するデザインが広まるようになる。まるで弾丸のように先を尖らせたバレットブラ(bullet bra)や、フレデリックス・オブ・ハリウッド社(Fredericks of Hollywood's)が売り出したプッシュアップブラ(push-up bra)が売り出されのもこの年代である。

1959年にノースカロライナ州のグレン・レイブン紡績会社(Glen Raven Mills)がパンティとストッキングを一体化させたパンティホーズ(Panty hose)を発明し、売り出した。また同じ会社は1965年にミニスカートに合わせて身につけるシームレス・パンティホーズを売り出した。

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2009年03月11日

カールズバッド洞窟は約100万匹のメキシコ・オヒキコウモリ

カールズバッド洞窟は約100万匹のメキシコ・オヒキコウモリ(Mexican Free-tailed Bat)の聖域である。 日中コウモリは、カールズバッド洞窟の天然の入口の近くの通路、バットケイブ(Bat Cave)の天井に群がっている。 コウモリの暗い家の中では、コウモリを見ることができるのは科学者だけである。 しかし、夕暮れには、コウモリは巨大な群れとなって洞窟を飛び立つ。 暗く、速く動く雲のように、夜空を背景にして、コウモリは素晴らしいショーを見せる。

バットケイブは、メキシコ・オヒキコウモリにとって、暖かい家、日中の避難所、そしておそらく最も重要であろうが、子育てのための巣となっている。 コウモリは、毎年メキシコからカールズバッド洞窟へ子どもを生み育てるために移動する。 暗闇に隠れ、捕食者や邪魔者から離れて、6月に子どもが生まれる。

6種の異なったコウモリが洞窟内に棲んでいる。

メキシコ・オヒキコウモリの見ごたえのある夜の飛行は、カールズバッド洞窟の天然の入り口から2、3匹のコウモリが飛び出してきて始まる。 それから、数分で、コウモリは密集した旋風となって洞窟から暮れていく夜空へ急上昇する。 この大脱出は20分、長いときは2.5時間続く。 いったん洞窟から出ると、数千のコウモリの波状の塊は、ペコス・リバーとブラック・リバー谷で餌をとるためにヘビのような形になって南東に向かって飛んでいく。 そこにたどり着くと、ガや他の夜飛ぶ虫をむさぼり始める。 各コウモリは反響定位を使って、一晩で何度かお腹が一杯になるほどの虫を捕まえて食べることができる。 夜明けとともに、コウモリは一匹ずつあるいは小さな集団になって洞窟へ戻り始める。 洞窟への再突入は出発と同じくらい特筆すべきものである。 各コウモリは洞窟の入り口より高い位置につける。 それから羽を体にくっつけて、カールズバッド洞窟の暗闇の中に雹のように飛び込み、そのときに変わったブンブン飛び回る音を出す。 コウモリ達は、翌日の夕暮れ時に再び姿を現すまで眠るバット・ケイブの安全の中に一匹ずつ戻っていく。

歴史
数百年前 有史以前の アメリカ先住民は避難場所を求めて思い切って洞窟の中を探検したのかもしれない。 彼らが描いた洞窟壁画は入口付近にまだ残っている。 そのずっと後、19世紀に米国の開拓民は洞窟を発見し、夕刻、天然の入口から無数のコウモリが飛び立つ光景に惹きつけられた。 その後まもなく、アバイジャ・ロング(Abijah Long)という名の地元のビジネスマンが、洞窟の中のコウモリの鳥糞石の大きな堆積物を掘り出し、肥料として売るという請求を申し立てた。 ロングの仲間の一人で、ジム・ホワイトという名のカウボーイは、洞窟に魅せられるようになり、探検に何時間も費やした。 ホワイトはこの特別な場所でのたくさんの自然の驚異を他人に見せたかったが、珍しい二次生成物に満ちた巨大な地下のウィルダネスについての彼のありそうもない話を信じる人はほとんどいなかった。 カールズバッド洞窟は言われるとおりのものあるいはそれ以上のものであると、疑い深い人を説得するには写真が必要だった。

ホワイトは多くの部屋を探検し、それらに名前をつけた。そこにはビッグ・ルーム、ニュー・メキシコ・ルーム、王宮(King's Palace)、王妃の間(Queen's Chamber)、赤ちゃんの部屋(Papoose Room)、グリーン・レイク・ルームが含まれる。 彼はまた洞窟の目だった二次生成物の多くに名前をつけた。例えば、トーテム・ポール、魔女の指(Witch's Finger)、ジャイアント・ドーム、底なし穴(Bottomless Pit)、妖精の国、氷山の岩、太陽の寺院(Temple of the Sun)、千歳の岩(Rock of Ages)がある。

ホワイトと一緒に洞窟を旅したレイ V. デイヴィスが撮影した白黒写真は、1915年カールズバッドの町で展示された。 これはセンセーションを巻き起こした。 人々は突然自分で脅威の洞窟を見たいと騒ぎ立てた。 ホワイトは、かつては洞窟からコウモリの鳥糞石を運んでいたバケットの中に入って170フィート降下するという形式ばらない方法で始まるツアーに人々を連れて行った。

洞窟のうわさが広がり、とうとうワシントンD.C.に届いた。 また、信じない人達がいたが、1923年、アメリカ合衆国内務省は、カールズバッド洞窟が本当に傑出した自然の美しい驚異かどうか調べるために、総合土地事務所の鉱物検査官ロバート・ホリーを派遣した。 元々ホリーは懐疑的であったが、探検隊とともに5週間の調査を行った後、最終報告書に次のように書いた。

"...私は、深く対立する感情、恐怖と畏敬、人間の目に提示された大自然の驚異の複雑な集合体としての神聖な創造主の作品を真に理解したいという欲望を伝えようとする自分の努力が不十分だとよく自覚している ...."
その後1923年10月25日、カールズバッド洞窟はナショナル・モニュメントに指定された。 ホワイトは、人生の時間の多くを洞窟の探検に費やし続けたが、1925年最初の公園案内責任者(chief park guide)となった。 その5年後にカールズバッド洞窟群国立公園がその洞窟を保護するために設立された。 ナショナル・ジオグラフィックのような雑誌で写真入りの記事が公表されることを通じて、--それは1924年及び1925年(地質学者ウィリス・T・リーの探検に基づいて)のことであるが、--そして口コミで、カールズバッド洞窟は世界で最も有名な洞窟の一つになった。 設立来、公園は拡げられてきており、今日では面積189平方キロメートル(46,766エーカー)となり、80以上の小さな洞窟を含んでいる。

カールズバッドの町、したがってカールズバッド洞窟群国立公園はチェコ共和国のカルロビバリ(Karlovy Vary)(Karlsbad - 文字通りドイツ語でチャールズの風呂(Charles' Baths))から名前を取ったと言われている。
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部屋
風船のダンスホール - メイン・エントランスの通路の上の天井に位置する。この小さな部屋には最初多くの風船にロープを結びつけ、通路に風船を浮かばせて近づいた。
鐘のひもの部屋 - 鐘を鳴らすための教会の尖塔から垂れ下がるロープに似ている、天井の穴から伸びている細長いつらら石に因んで名づけられた。この部屋は、レフト・ハンド・トンネルの突き当たりに位置する。
ビフロスト・ルーム - 1982年に発見された。雲の湖(Lake of the Clouds)の上の天井に位置する。
ビッグ・ルーム - カールズバッド洞窟群の中で最大の部屋で、床面積はアメリカンフットボール場約14面分の広さ。
グリーン・レイク・ルーム - 「景色の良い部屋(Scenic Rooms)」の中で最上のもの。部屋の隅のマラカイト色の深いプールに因んで名づけられた。1940年代に、軍が非常時の核シェルターとしてのカールズバッド洞窟の可能性を調査したときに、グリーン・レイクは遠くの核実験によってさざなみが引き起こされるかどうかの調査に使用された。さざなみは起きなかった。
グアダルーペ・ルーム - 1966年にパークレンジャーによって発見された、カールズバッド洞窟群の中で2番目に大きい部屋。鍾乳管がたくさんあることで知られる。
白い巨人の大広間 - 大きな白い石筍のある大きな部屋。 レンジャーは定期的にこの場所に特別ツアーを案内する。
王宮 - 「景色の良い部屋」として知られるウイングにある4つの部屋の中の1番目。部屋の中央にある大きな城のような二次生成物に因んで名づけられた。
雲の湖(Lake of the Clouds) - 知られている範囲で、洞窟の最深部。レフト・ハンド・トンネルから分かれた脇の通路にある。球形の雲のような二次生成物があるその部屋の大きな湖に因んで名づけられた。
レフト・ハンド・トンネル - 長いまっすぐな通路で、床に深い亀裂が刻まれている。この亀裂がどこに続いているのかは知られていない。レフト・ハンド・トンネルは、雲の湖と鐘のひもの部屋に続いている。
ミステリー・ルーム - ロウワー・ケイブの中の小部屋。
ニュー・メキシコ・ルーム - 王妃の間の近くに位置し、短い坂を上って行く。
赤ちゃんの部屋 - 王宮と王妃の間の間に位置する。
王妃の間 - 一般に洞窟の最も美しく眺めの良い場所とみなされている。探検の最中ジム・ホワイトのランタンがこの部屋で消え、30分以上暗闇の中に閉じ込められた。
精霊の世界(Spirit World) - ビッグ・ルームの天井に位置する。ここはこの部屋の発見者には天使に似ているように見えた白い石筍で一杯である。
タルカム通路(Talcum Passage) - 床が石膏の粉で覆われているロウワー・ケイブに位置する部屋。
貧民窟(The Rookery) - ロウワー・ケイブの大きい部屋の一つ。

最近の探検
カールズバッド洞窟はその神秘のいくつかに光を当てたいと思う多くの人々を惹きつけている。 安全な探検技術に通じた洞窟探検家のチームが、洞窟の新しい部分を発見し続けている。 彼らが近年発見したものの中には、1966年のカールズバッド洞窟の第2の大きさの部屋、グアダルーペ・ルーム、1982年の非常にカラフルで良く装飾されたビフロスト・ルーム、1993年の最も新しい発見の一つであるチョコレート・ハイがある。

1985年非常に特色のある探検方法が発明された。 ドーム・エリアで、ビッグ・ルームの床から250フィート上の、底なし穴から遠くない場所に石筍が身を乗り出した。 ヘリウムで満たされた風船をつけたバルサ材を使って、探検家達は--数年にわたる数次の試行の後--目標のつらら石にひっかけた軽量のひもを浮かべた。 いったん軽量のひもが地面から上がって元に戻って準備が完了した後、登山用ロープの準備が整い、探検家達は彼らが精霊の世界と呼んだものに上がっていった。

レチュギア・ケイブは1986年に発見された洞窟で、公園で現在行われている洞窟探検の焦点である。 洞窟は深さ489メートルで、米国最深の石灰岩の洞窟である。 一般人は立入禁止で、洞窟を最も平穏な状態で保全するため正確な場所は秘密にされた。

底なし穴は元々底がないといわれていた。 石を投げ込んでも底にぶつかる音がしなかった。 最近の探検により、底は約300ヤードの深さで軟泥に覆われていることがわかった。 石が底を打っても音がしないのは、軟泥につかえるためである。

洞窟学者達による科学的発見は、その他の面でもカールズバッド洞窟についての我々の知識を拡大しつつある。 研究により、カールズバッド洞窟の複雑な成り立ち、コウモリや洞窟に棲む他の動物の未知の世界、人間の活動が洞窟に及ぼす影響についてのいくつかの質問に答えられるようになりつつある。

2009年02月22日

オジブウェー語

オジブウェー語(Ojibwe)(オジブウェー語では「オチポェーモオィヌ」(????????/Ojibwemowin))又はアニシナーベ語(オジブウェー語では「アニッシナーペーモオィヌ」(??????????/Anishinaabemowin))は北米大陸の五大湖からその西の平原にかけてオジブワ(チペワ)族[1]により話されている言語である。アルゴンキン語族に属し、他のアメリカ諸語と同じく抱合語(複統合語)である。アメリカ先住民の言語の中でも話者が多く、また方言も多様である。カナダでは音節文字表で書かれています。本稿では西南方言に属するミネソタ方言を主とし、表記はフィエロ二母音式(Fiero Double-Vowel System)をとる。
ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

オジブウェー語では生物(生きているもの)か非生物(生きていないもの)かの区別が名詞の形式に表される。これは伝統的な思想に由来するもので現在に生物ではないと考えられているもの(例えば霊魂の宿る岩)でも生物のグループに入ることがある。また生物・非生物で意味を違える単語があり、木を意味するmitigは生物形(複数mitigoog)では生えている木を表し、非生物形(複数mitigoon)では木の棒を表す。


名詞は単数形と複数形をとり生物複数形は-g,非生物複数形は-nをとる。動詞は主語と目的語によって異なる語形をとる。

人称
生物/非生物、単数/複数、一人称/二人称/第一三人称(proximate: 近接)/第二三人称(obviative: 忌避)によって14種の形をとる。三人称には二種類あり、「彼は彼に会った」のように異なる三人称の名詞が二つある場合に片方が第一三人称、もう片方が第二三人称で表される。第二三人称は第四人称とも呼ばれる。

X ? 非生物単数一人称
0 ? 非生物単数第一三人称
0' ? 非生物単数第二三人称
1 ? 生物単数一人称
2 ? 生物単数二人称
3 ? 生物単数第一三人称
3' ?生物単数第二三人称
0p ? 非生物複数第一三人称
0'p ?非生物複数第二三人称
1p ? 生物複数一人称(相手除く,exclusive)
21 ? 生物複数一人称(相手含む,inclusive)
2p ? 生物複数二人称
3p ? 生物複数第一三人称
3'p ? 生物複数第二三人称

代名詞
人称代名詞は数・人称によって異なる形を取る。一人称複数は包括的(inclusive)と除外的(exclusive)の二つがあり、前者は話している相手を含む場合、後者は含まない場合に用いられる。一人称単数niin、一人称複数(包括)niinawind、一人称複数(除外)giinawind、二人称単数giin、二人称単数giinawaa、三人称単数wiin、三人称複数wiinawaaである。

指示代名詞は(1)生物/非生物、(2)ここ/そこ/向こう側/こちら側 (3)単数/複数(4)第一三人称/第二三人称 の四つを基準に語形が異なる。指示代名詞は方言差が大きく以下の表は南西方言のミネソタ方言のものであり話者全てにとって正しい語形ではない。

その他
疑問代名詞:awenen(誰)、awegonen(何)
未知代名詞:awegwen(知らない人)、wegodogwen(知らない物)
不定代名詞:awiiya(誰か)、gegoo(何か)

形容詞
日本語のような動詞と形容詞の区別はなく一つの品詞(動詞)とみなされる。また繋辞と呼びうる語はあるが通常には用いられない。

南方ローマ字式
南方ローマ字、又は、フィエロ二母音式(Fiero Double-Vowel System) 南方ローマ字式のアルファベットは「a」「aa」「b」「ch」「d」「e」「g」「'」「h」「i」「ii」「j」「k」「m」「n」「nh/ny」「o」「oo」「p」「s」「sh」「t」「w」「y」「z」「zh」。

「']「b]「d」「g」「j」「z」「zh」「nh」は弱子音であります。
「h」「p」「t」「k」「ch」「m」「n」「s」「sh」「w」「y」は強子音であります。
オジブウェー語の鼻濁音は子音の前のn、又は、長母音の後のnhで現せています。

「e」はいつも長母音ですが、「i」「o」「a」の長母音は二母音で書いている。

北方ローマ字式
北方ローマ字、又は、ソートー・クリー式(Saulteaux-Cree System)はカナダの北の方でつかっているものです。 北方ローマ字式のアルファベットは「a」「â」「c」「e」「h」「i」「î」「k」「m」「n」「o」「ô」「p」「s」「š」「t」「w」「y」。

「p]「t」「k」「c」「s」「š」は弱子音であります。
「h」「m」「n」「w」「y」は強子音であります。もし弱子音の前に「h」をあてたら強子音に変身します。声門閉鎖音、および、鼻濁音は表示されていません。
「e」はいつも長母音ですが、「i」「o」「a」の長母音はそれらの上にサーカムフレックスかマクロン と書かれている。

中央ローマ字式
中央ローマ字式は北方ローマ字式と同じ子音式をつかい、南方ローマ字式と同じ母音式をつかう。

東方ローマ字式
東方ローマ字、又は、アルゴンキン式(Algonquin System)はカナダのケベック州でつかっているものです。

音図
オジブウェー語は日本語と同じように音節文字で書くことがある。オジブウェー語の音図のローマ字はソートー・クリー式です。

この図の子音は弱子音ですが、メー行とネー行は強子音です。
強子音は音節文字の前に「''」があります。
エー段はいつも長母音ですが、イ段/オ段/ア段の長母音はそれらの上に点があります。
この話はミネソタ州立大学ベミジ(Bemidji State University)のブライアン・ドナヴァン(Brian Donavan)博士のウェブ・ページにあったもので、もとはアール・ナイホルム(Earl Nyholm)博士のお話でありました。ナイホルム博士、または「オチーンコァニカヌ」(英:Otchingwanigan、オ: Ojiingwanigan) は、ミシガン州の上半島のかたです。

本文
Aabiding gii-ayaawag niizh ikwewag: mindimooyenh, odaanisan bezhig.
Iwidi Chi-achaabaaning akeyaa gii-onjibaawag.
Inashke naa mewinzha gii-aawan, mii eta go imaa sa wiigiwaaming gaa-taawaad igo.
Mii dash iwapii, aabiding igo gii-awi-bagida'waawaad, giigoonyan wii-amwaawaad.

翻訳
昔ある所に二人の女がいた。婆と、娘の 一人。
そちらはインガーの方から来た。
ほら、もう夙に有ったそうなのさ。そこでウィグワムに住んでいたのさ。
そしでそのとき魚を食べたくて、さきほどさ、網漁業に行った。

2009年02月06日

山縣有朋

山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日)- 大正11年(1922年)2月1日は、日本の政治家、軍人。 長州藩領内の蔵元仲間[1]三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。
ナビリベリア コレポン テニス ヱスビー アント キック ブルマン 女性の生活 チップ スターフ ゼネス くちばい ノパン たらふく ミック チャー プレミ クォーザ ラップ バッイグ パート フォー エストール カーシェア Sぼうおく チアダンス フォース ゼキショウ ブレイブ ヒップボーン ドーム ブリース サボテン リンリレー ロースター バイメタ モルモッ ダバオ ジュネーブ シオニズム グッド ニュー ガイド レター ガーリ 青梗菜 ファック オールス ジャスパー じゃじゃ

高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。明治新政府では軍政家として手腕をふるい日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。晩年も陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」[2]として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。伊藤博文とならび明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。

天保9年(1838年)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔(ありとし)の長男として生まれる。足軽以下の中間身分ながら将来は槍術で身を立てようとして少年時代から槍の稽古に励んでいた。このころ友人杉山松助らに松下村塾への入塾をすすめられるも、「吾は文学の士ならず」として辞退したともいわれる[3]。

安政5年(1858年)7月、長州藩が京都へ諜報活動要員として派遣した6人のうちの一人として、杉山松助、伊藤俊輔らとともに上京し、尊皇攘夷派の大物であった久坂玄瑞、梁川星巌、梅田雲浜らに感化を受け9月に帰藩後久坂の紹介で吉田松陰の松下村塾に入塾したとされる。松陰から大きな影響を受けたと終生語っていた。松蔭門下となったことが出自の低い山縣が世に出るために大きな助けになったことは事実である。山縣が入塾したとされる時期からこの数か月後に松陰は獄に下ったため山縣の在塾期間は極めて短かったが、彼は生涯「松陰先生門下生」と称し続けた。

文久3年(1863年)高杉晋作の奇兵隊創設とともにこれに参加し頭角を現す。高杉晋作は身分に囚われずに有能な人材を登用したため、低い身分であった伊藤博文や山縣などが世に出るきっかけを与えた。松下村塾と奇兵隊の存在により幕末の長州藩からは、伊藤博文や山縣のように足軽以下の身分の志士が多く出ている[4]。 同年12月高杉晋作が教法寺事件の責を負い総督の任を解かれた際には三代目総管赤根武人とともに奇兵隊軍監に就任し、赤根武人が出奔した後は事実上実権を握った。慶応元年(1866年)に四代目総管に就任し、長州征討で高杉晋作と共に活躍、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。

明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。

明治維新後
山縣有朋
1838年6月14日 - 1922年2月1日

晩年の山縣
渾名 日本軍閥の祖
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1868-?1898
最終階級 元帥陸軍大将
部隊 奇兵隊(幕末期)
戦闘 戊辰戦争・西南戦争
日清戦争・日露戦争
賞罰 従一位・大勲位・功一級・公爵
除隊後 内務卿
内閣総理大臣
元老
明治2年(1869年)渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌年アメリカ経由で帰国した後は暗殺された大村益次郎の後継として、西郷隆盛の協力を得て軍制改革を行い、徴兵制を取り入れた(徴兵令)。明治5年(1872年)、山縣は陸軍出入りの政商、山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。いわゆる山城屋事件である。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追究は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年(1873年)4月に陸軍大輔を辞任。しかし長州閥として山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。

明治10年(1877年)に勃発した西南戦争では、参軍として官軍の事実上の総指揮を執った。錬度や士気で優る薩軍に対し、物量で対抗して鎮圧した。

明治16年(1883年)には内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。

明治22年(1889年)、内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)。超然主義をとり軍備拡張を進める。第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。明治23年(1890年)10月30日に教育勅語を発布。明治24年(1891年)に辞任[5]し、元老となる。日清戦争や日露戦争では自ら戦争遂行の指揮をとったがしばしば独断専行で大本営の指示に従わなかった。このため日清戦争時は「病気療養のため」という勅命で第一線から呼び返されている[6]。

明治31年(1898年)、第2次山縣内閣発足。

明治32年(1899年)、文官任用令を改正[7]。文官懲戒令、文官分限令を公布。

明治33年(1900年)3月10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。

続いて3月29日には、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和(さらに、国税は過去3年間から2年間に緩和。地租は1年間で変化無し)すると共に、小選挙区制(一部完全連記制の中選挙区制)から大選挙区制(一部小選挙区)に改めた。市制を執行している自治体は、それぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。山縣は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した(超然主義)。

小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。また、政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。同年10月辞任。

陸軍・官僚の大御所
以後、陸軍・内務省・宮内省・枢密院などにまたがる「山縣系官僚閥」を形成して、陸軍では桂太郎や寺内正毅、官僚では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。日露戦争では参謀総長として日本を勝利に導いたこと(ただし明治天皇は、山縣より桂を信頼しており、山縣の頭越しに桂へ諮詢することもあった)、伊藤博文が暗殺されたことにより、明治末期から大正初期にかけては山縣の発言力は増大した。

山縣は親欧米派であり、また中国に対しても慎重派であり、場合によっては協調派ですらあった。大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求に関しても一貫して反対しており、大隈内閣のやり方を批判している。山縣が政党を嫌ったのは、彼らが対外強硬派であり、自分達元老が苦労して作り上げた日本を、 彼らの無謀な強攻策により失うのを恐れたためである。現役武官制の復活も、政府が軍部を無視して勝ち目のない戦争をしないようにしたためだと考えられる。

だが、桂の自立(大正政変を参照)、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第1次世界大戦など、山縣は次第に時代の変化についていけなくなり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。そのような中で政党内閣の時代を迎え、やがて宮中某重大事件を巡る対応の拙さから山縣の政治的な権威は大きく失墜した。

宮中某重大事件の後、ほどなくして山縣は失意のうちに逝去する。享年85(満83歳没)。

その死に際しては、維新の元勲として国葬が行われたが、参列したのは陸軍や警察の関係者がほとんどで、一般の参列はほとんどなかった。これに対し、ほぼ同時期に行われた大隈重信の葬儀は、同じ首相経験者であり維新の元勲であったのにもかかわらず国葬にならなかったものの(「国民葬」とされた)、各界の著名人が出席し、一般参列者によってごった返すなどあまりに対照的だった(新聞の宣伝効果の影響もあるが)。当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。

山縣の死とともに薩長藩閥支配はほぼ終焉となるが、一方で軍・政府は統制が利かず世界恐慌の影響もあり日本は混乱の時代へと向かう。

栄典
明治3年(1870年)8月:従五位
明治10年(1877年)11月2日:勲一等旭日大綬章
明治17年(1884年)
7月7日:伯爵
12月:従三位
明治19年(1886年)10月:従二位
明治28年(1895年)
5月26日:元勲優遇
8月5日:勲一等旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章、侯爵
明治31年(1898年)1月20日:元帥
明治35年(1903年)6月3日:大勲位菊花大綬章
明治40年(1908年)9月21日:大勲位菊花章頸飾、功一級金鵄勲章、公爵
大正11年(1922年)2月9日:国葬

影響と評価
山縣は歴史家から大きなマイナスの評価を与えられてきた[9]。 有馬学は明治から現在に至る山縣論を分析して、山縣が個人的なパーソナリティーや政治姿勢及びその実像とは離れたところで、「近代日本の暗部」であり「否定されるべき存在」として「象徴化」「記号化」されて語られてきたとする。また有馬は明治末期から山縣の死の前後まで「否定の対象」として語られていた山縣が、昭和戦前期には「否定の対象としても忘れ去られ」、戦後の軍国主義批判のなかでまた「否定の対象」として語られるようになったと指摘する[10]。 歴史愛好家からの評価・人気は伊藤に比して概ね低い[要出典]。

軍内部に与えた影響
明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大きなものがあった。

山縣はこれと見込んだ軍人や官僚を要職につけて見捨てることがなく、これが自然と「山県系」ともいえる人脈を形成した[11]。 しかしこれは同時に元長州藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法ともいえ、長閥として嫌う者も非常に多かった。また近代日本初の大掛かりな汚職疑惑に絡み、江藤新平司法卿をいただく司法省の厳しい追及にあって一旦は辞職もしている(山城屋事件)。

大正元年(1912年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している[12]。 陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職に追い込まれ[13]、第3次桂内閣が発足するに至った[14]。 これも寺内正毅と共に長州びいきを推し進めた結果である。[要出典]しかし、寺内の死後、その勢力は急速に衰退し、山縣の死をもって長閥勢力の終わりは決定的となった。

周囲の評価
護国寺内 山縣有朋墓
左が有朋の墓。右が夫人の墓吉田松陰の文章における山縣の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことがわかるが、後に入江杉蔵にあてた文書では「群材」の一人として「小助(山縣)の気」を評価している。[15]

自由民権運動の弾圧や、大逆事件を積極的に推し進めたこと、宮中某重大事件での宮中への必要以上の容喙等から山縣の人気は生前から低かった。山縣の権威が失墜した宮中某重大事件は西園寺公望が山縣に相談したことをきっかけに山縣が動き始めたものであったが、世間では藩閥間の対立ばかりが強調されて捉えられて、結果的に山縣一人が「悪者」となった側面もある。しかし、この事件をきっかけに山縣を追い落とそうとした勢力が強かったという事やそれを後押しした世論が大きかった事を考えれば、山縣に反感を抱いていた人がいかに多かったかを示した事件との見方がなされている。

山縣は立憲政友会総裁の原敬を評価し、対抗しながらもその内閣組閣を支持しつづけ、また影響力を行使しようとしていた。原敬が暗殺された折には深く嘆いたともいわれる。一方で原敬も山縣を高く評価し、山縣の影響力を十分承知して巧みに彼を懐柔していた。しかし山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについて彼は嫌悪しており「あれは足軽だからだ」(実際の山縣は足軽以下の中間出身)と軽蔑の意を込めて述べている[16]。

後年の評価
大正11年の死から昭和戦前期にかけて、山縣は「否定の対象としても忘れ去られた」[17]存在であった。 第二次大戦後、戦後民主主義と新左翼的歴史観の下では「近代日本の政治」の象徴として批判的にとらえられ、「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山縣有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けた。

明治新政府では日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されたが、同時に陸軍の性格、方向性を決定付けたのも彼であるといわれ、後の日本陸軍の様々な問題点のルーツは山縣に起因する部分も多いと指摘されている。(もし大村益次郎が落命せず、大村が中心となって黎明期の陸軍を整備すれば全く違った性格の陸軍になったとも考えられている)。[要出典]

しかし近年、イデオロギー的文脈から切り離した山縣の実像に迫る分析がジョージ・アキタ(George Akita)、伊藤隆らにより試みられている。そこからは、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢[18]」をとり続けた政治家という、従来の軍国主義的人物像とは異なる山縣の姿が浮かび上がる。[19][20]

風雅の道と普請道楽
山縣は和歌をたしなんだ父の影響もあって、折にふれ和歌を詠んでいる。また漢詩、仕舞、書も好んだ。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。山縣三名園に数えられる東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や7代目小川治兵衛をして築かせたものである[21]。 これらは山縣の好みに従った自然を生かした構成で、伝統的な日本庭園とは一線を画していた。謂わば成金趣味として眉をひそめる人が多かったと伝えられる。[要出典]なお同じく長州の低い身分から栄達した伊藤博文は山縣のような邸宅や金銭に対する執着が少なく亡くなった時に財産らしい財産は残しておらず山縣とは好対照であった。

主な邸宅と庭
無鄰菴(初代) 長州
椿山荘 東京・小石川目白台の本邸
明治11年(1878年)にこの地を購入し造営。作庭は岩本勝五郎[22]。大正7年に藤田平太郎に譲渡。
山縣農場 栃木県・那須
明治15年ごろ[23]、那須に広大な第三種官有地の払下げを受け移住農家を招致して開墾をすすめたもの。[24] 古希庵の伊東忠太設計による木造洋館は大正12年関東大震災被災のあと伊三郎によりこの農場に移築されて、現在は財団法人山縣有朋記念館となっている。
小淘庵(おゆるぎあん) 大磯別邸
1887年(明治20年)頃からの約5,000坪の別邸。のち、山縣はこれを三井家に譲渡して古希庵を構えた。
無鄰菴(第二)京都別邸
明治24年
無鄰菴(第三)京都別邸
明治29年完成[25]。数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館からなる。洋館の設計は新家孝正で明治31年に竣工。この洋館2階の間は日露開戦直前には「無鄰菴会議」の舞台ともなった。作庭は七代目小川治兵衛。
新々亭(さらさらてい) 東京小石川別邸
明治35年

晩年を過ごした古稀庵(神奈川県小田原市板橋)古希庵(こきあん) 小田原別邸[26]。
山縣が明治40年、古稀の折りに造営し晩年を過ごした邸宅。平屋建の和風木造の母屋、木造二階建の洋館(伊東忠太設計、1909年竣工)、レンガ造平屋建の洋館(ジョサイア・コンドル設計)があった。岩本勝五郎による広大な庭園は相模湾と箱根山を借景としていた[27]。「小田原の大御所」の異名はここに由来する。
新椿山荘 東京・麹町
大正六年
山縣三名園
椿山荘庭園 1万8千坪。富士山、筑波山、房総の山々を見渡す広大な庭。
無鄰菴庭園
古希庵庭園 1万坪

系譜
山縣氏は清和源氏多田氏の流れと言うが明確ではない。家名はその祖が安芸国山県郡今田村に住んだ事からとされる。父は蔵元付中間。母は中間岡治助の娘。家紋は丸に三つ鱗。

有朋には跡継ぎが無く、姉の壽子と勝津兼亮の次男伊三郎を養子として迎える。伊三郎は枢密顧問官・逓信大臣・徳島県知事等を務める。有朋の姉、雪子は森山久之允に嫁す。伊三郎の子山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務める。また、有朋の娘・松子と船越光之丞の三男有光を伊三郎の養子に迎え、山縣家分家として男爵を授爵された。有光は陸軍大佐・第21飛行団長。有道の子山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。

           (旧姓中村氏)
吉左衛門━吉左衛門尚政=三郎有稔┳有朋=伊三郎━┳有道━┳有信━━有徳━━有成
                ┃  ┗松子↑ ┃   ┃    
                ┣壽子     ┣清子 ┣美枝子 
                ┃ ├─伊三郎 ┃   ┃
                ┃勝津兼亮   ┣三郎 ┗美智子
                ┃       ┃
                ┗雪子     ┣吉朗
                        ┃
                        ┣壽美子
                        ┃
                        ┣五郎
                        ┃
                        ┣有光(船越光之丞三男、男爵)
                        ┃
                        ┗七郎
                        

2009年01月22日

カティンの森事件

カティンの森事件(ポーランド語: Zbrodnia katyńska, ロシア語: Катынский расстрел)は、ソ連国内のスモレンスク近いグニェズドヴォ (Gnezdovo) 村近くの森で約4400人のポーランド軍将校捕虜・国境警備隊員・警官・一般官吏・聖職者がソ連の内務人民委員部(秘密警察)によって銃殺された事件。日本ではカティン事件またはカチン事件としても知られている。

カティン(カティニ、Katyń)は、この事件があった場所の近くの地名で事件とは直接関係ないが、覚えやすい名前であったため、当時のドイツが対外宣伝用に使用した。

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北。ポーランド東部で武装解除されたポーランド軍人や民間人がソ連軍の捕虜になり、強制収容所へ入れられた。彼らは3つの収容所へ分けて入れられたがその中の一つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜達は皆喜んだが、軍隊用語で「西へ向かう」という言葉が不吉な意味を示すことを知っていた少数の捕虜は素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、約束通り「西へ向かい」そのまま消息不明となった。

1943年、ソ連に侵攻したドイツ軍はカティン近くの森で溝に4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主等の遺体が埋められているのを発見し、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。

大戦中の西側連合軍の対応
イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。

失地回復したソ連は1944年にカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触して、ソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルト大統領にこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルト大統領はそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった。

大戦後の調査
1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺についてドイツを告発した。彼は「もっとも重要な戦争犯罪の内の一つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べている。アメリカとイギリスがこの告発を支持しなかったので、カティンの森事件についてはニュルンベルク裁判では一言も述べられていない。

この事件の責任が誰にあるのかについては西側でも東側においても議論が続けられたが、ポーランド統一労働者党の幹部たちはこの事件についてソビエト連邦に遠慮してか真相を究明しようとはしなかった。この状態は1989年にポーランドの共産主義政権が崩壊するまで継続した。
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1952年に米国議会で、カティンの森事件がソ連内務省によって1939年に計画され、赤軍によって殺害が実行されたと認定された。また、1970年代後半のイギリスでは、事件の1940年の日付で犠牲者のための記念碑をつくる計画があったが、冷戦下の政治情勢を刺激するとして非難された。

1989年、ソ連の学者たちはヨシフ・スターリンが虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴレンチー・ベリヤ等が命令書に署名したことを明らかにした。

1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ (Mednoe) とピャチハキ (Pyatikhatki) を含めてソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。

1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。

映画化
2007年にポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによって、この事件を題材とした映画『カチン』が制作された。ワイダの父親もこの事件の犠牲者である。

2009年01月15日

雨乞い(あまごい)

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雨乞い(あまごい)とは、旱魃が続いた際に雨を降らせるため行う呪術的・宗教的な儀礼をいう。祈雨(きう)ともいう。雨乞いは、農耕民・狩猟民・牧畜民を問わず、世界各地で見られる。当然、熱帯乾燥地域で特に盛んに行われる。

日本でも各地に様々な雨乞いが見られる。大別すると、山野で火を焚く、神仏に芸能を奉納して懇請する、禁忌を犯す、神社に参籠する、類感(模倣)呪術を行うなどがある。

山野、特に山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いは、日本各地に広く見られる。神仏に芸能を奉納する雨乞いは、近畿地方に多く見られる。禁忌を犯す雨乞いとは、例えば、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものや、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものであり、一部の地方で見られる。神社への参籠は、雨乞いに限らず祈祷一般に広く見られるが、山伏や修験道の行者など、専門職の者が行うことも多い。類感呪術とは、霊験あらたかな神水を振り撒いて雨を模倣し、あるいは火を焚いて煙で雲を表わし、太鼓の大音量で雷鳴を真似るなど降雨を真似ることで、実際の雨を誘おうとするタイプの呪術である。このタイプの雨乞いは、中部地方から関東地方に多い。

文献に見える最古の雨乞いの例は、『日本書紀』皇極天皇元年(642年)の条の記述である。

戊寅。羣臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺寺轉讀大乘經典。悔過如佛所訟。敬而祈雨。
庚辰。於大寺南庭嚴佛菩薩像與四天王像。屈請衆僧。讀大雲經等。于時。蘇我大臣手執香鑪。燒香發願。
辛巳。微雨。
壬午。不能祈雨。故停讀經。
八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拜四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。〈或本云。五日連雨。九穀登熟。〉於是。天下百姓倶稱萬歳曰至徳天皇。
これによると、7月25日から蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経を輪読させたが、微雨のみで効が見られなかったので同29日にやめさせた。しかし、8月1日に皇極天皇が天に祈ると、突如大雨が降り、天下万民は共に天皇を称えたとある。 この記述以前にも、平安時代に編纂された仏教史書『扶桑略記』には、推古天皇33年(625年)の条に、高麗僧恵灌に命じて雨乞いの儀式を行わせたという記述がある。

これらの記事以前より、雨乞いは広く行われていたものと見られる。